意思表示

投票率30%40%というのは、まったく珍しくない数字となってきたようです。
投票に行かない人が「どうせ変わらない」と感じているからなのでしょうか。
この「どうせ変わらない」という感覚は、いつごろから意識されてくるのでしょうか。
人間は学習する動物ですから、自分の行動の結果を予測して、それがうまくいきそうだというときには、進んで行動するものだと思います。
それが個人的な能力に関するもの、たとえばスポーツであれば、練習すれば伸びるものだという意識が働きますから、いろいろと試行錯誤を繰り返し、ハードなトレーニングにも打ち込んだりします。
しかし、こと社会的な事項を決めるということに関しては、あまり成功した体験をもたないのではないかと思います。
地方自治は民主主義の学校などという言葉がありますが、「学校は自治の学校」であるべきだと私は考えています。
さて、今の学校は「自治の学校」となっているでしょうか。
小学校ではあまり意識されないルール「校則」は、中学校で突如として表れ、強力な拘束力で生徒を縛ります。
しかし、ルールというのは、先に存在するから守らねばならないものでしょうか。
もちろんそういう場合もありますが、ルールを守らなければならないことを正当化するのは、「自分たちでそれを決めた」ということなのではないでしょうか。
しかし、中学校で現れ、高校卒業まで6年間私たちを拘束した校則は、自分たちで決めたものではありませんでした。
とはいえ、私が通っていた学校の校則はそこまで厳しい方ではなかったのかもしれません。
それでも、守らなければ何らかの措置を強制されていた記憶はあります。
校則について「そのルールは自分たちのものである」という確信はそこにはありませんでした。


議論は飛躍して・・・。


私たち国民(「われらとわれらの子孫」)が勝ち取ったはずの、国民主権というルールは、もはや国民の確信とはなっていないのでしょうか。
3割4割という投票率の更に半分くらいにしか由来しない「権威」が、絶対的に振舞うという構図を見る限り、近い国を見て「独裁だ」と批判する資格はないのではないかと、思います。
でも「全力をあげて」理想を達成しないと!